常識

不祥事が続いて起きた某大学の入学式で「君らは常識が備わった年齢に達していると考えられる。今後、常識人として責任を持って行動してもらいたい。」と学長が述べていた。
常識って何であろうか?三省堂「大辞林」によれば、(1)ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力、(2)「共通感覚」に同じ、とある。
任天堂「常識とは何か?常識力とは何か?」(http://www.nintendo.co.jp/ds/ajyj/what/)によれば、「『常識』は社会の潤滑油の役割を果たし、人間が社会で生きるための最低限の必要条件と言えましょう。 これを欠いては、どこかで、誰かに、何らかの点で迷惑をかけたり、不快感を抱かせたりして、結局、当人の評判を落とす羽目になるのです。」とある。
「常識」は、英語ではcommon senseというが、この言葉はラテン語のSensus Communisに由来している。Sensus Communisについては、アリストテレスは共通感覚、ストア派のキケロやセネカは世間の人々が共有しているものの感じ方、考え方をいうと説いている。
「常識」は世間の人々が共有しているものの感じ方、考え方であるから、「当たり前」のこととされ、この「当たり前」を知らなければ、「非常識人」となる。「当たり前」であるから疑問を抱く必要もないらしい。
私のようなひねくれ者は、屡々、常識と異なる行動をとってきた。その際、アインシュタインが「常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションである。」と言っているじゃないかと自分を納得させていた。
学説を説明するときに「通説」という言葉が出てくる。これは、世間に広く通用している説を意味し、多数の学者によって支持されている仮説である。あくまでも、通説も仮説の一つに過ぎない。即ち、通説は、「その時代の大きな独断と偏見の塊」に過ぎない。コペルニクスが地動説を唱えたとき、その時代の天文学の常識では天動説であった。何事も常識として当たり前として疑問を抱かずに受け入れたならば、そこには進歩はない。
ところで、「学歴・金・コネがなければ出世できない。それは常識だ」と考える若者が多い。現代社会では常識なのかもしれない。若者ならば、たまには常識に逆らってみてもいいではないか。「優等生の常識人より、前田慶次のような傾奇者(カブキもの)になれ!」と言いたい。
「未来を恐れず、過去に執着せず、今を生きろ」(ホリエモンの近大卒業式でのメッセージ)も付け加えたい。
最後に、森鴎外の「舞姫」の一部を紹介しよう。「たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなくおだやかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり」。

 

担当:「けんぽう」を教えていると言ったら、老人に「何段ですか」と聞かれ、「当然、じょうだん?の黒帯です。嵐とヌンチャクで戦ったこともあります。」と答えた教員(実話)